(※この記事は2018/2/2に更新しました)
ちわ!おいさんだよ。
キミは大切な人と最後の旅をしていますか?
今回はいよいよ宮崎案内の旅だな。
そう、ようやく宮崎にたどり着いたわしらは、老人施設に入っているばあちゃんを訪ねて思い出作りの旅を行ったのじゃ
個人的な思い出は作れたか?
そうなんだよね、思い返せばこの時が大きな最後の思い出になったかな。
今回も旅日記・番外編
長い旅をしてきたわしは、オカンと九州に渡り、二人で旅をすることになったのでしたw
今回はその時の宮崎県から物語は始まります。
前回まではこちら
九州ふたり旅で宮崎にやってきたよ(*´ω`*)
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あの地獄の日々も懐しい思い出に 今は無き九州の実家を訪ねて
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九州観光3 ある晴れた秋の日。西都原古墳で
良い天気である。
ここは宮崎の老人ホームから車で30分くらい走った先にある有名な西都原古墳群。
春には桜が咲き乱れ、菜の花畑や多くの出店で賑わっていたりするところだ。
そんな西都原古墳群にわしはおかんやばあちゃんと一緒に来ていた。
午前中は墓参りや今は廃墟同然になった祖母の家を訪ね、お昼ごはんをここに食べに来たのだ。
今日は偶然にも秋にしては暖かく、外にばあちゃんを連れ出しても寒くない程の気温であった。
近くの食堂兼おみやげ屋のモダンな建物の前に、大きな石が置いてある。
せっかくだからここでも記念に1枚。おかんに促されてシャッターを切る。
そしてまたしても著者近映。
おかんがついでに1枚撮ってもらった。良い記念になったかな?(*´∀`*)
しかし、この1枚がよもや祖母と写る最後の写真になるとは……
車を走らせ宮崎市内へ
せっかく外出の許可も取り、まだ時間もあるので宮崎観光をしてみる。
といっても、シーガイア近くのイオンに行って、ばあちゃんとショッピングしただけなんだけどw
その帰り道、いつもは通りすぎてしまう有料道路の真ん中にある喫茶店に立ち寄った。
ばあちゃんたちは先に喫茶店に入って行ってしまった。
わしは歩道橋を渡って駐車場の方を見てみる。向こうには綺麗な海が広がって見えた。
思い返せば、この長い道路をじいちゃんが死にかけた時には何度も往復したよな(;´∀`)
あの時は本当に大変だった。
大学を辞めて仕事もクビになり、東京でぶらぶらしていたわしは、母親に呼ばれて宮崎に来たのだった。そこには末期ガンに侵されてもう一年が過ぎたじいさんと、風呂場で腰の骨を折ってアルツハイマーになり、まっすぐに歩けなくなったばあちゃんがおかんと暮らしていた。
おかんは元々性格がちょっと変わっていて、末期がんの痛み止めの副作用で少しボケたじいさんを介護すべく、静岡の仕事を辞め、飛行機にも乗れなくなったじいさんたちのためにわざわざ宮崎にやってきたのだ。
余談だが、おかんは普段、介護の仕事をして生計を立てている介護士である。
そこではオカンが言うところによると壮絶な生活をしていたらしい。
まず経済観念のないじいさんと毎日金のことでケンカをし、毎回ヘトヘトになるほど言い争い、昼間は介護士としてジジババの世話をして、また帰ってきてからはわがままな自分の父親を介護するという二重介護生活だった。
そんな介護生活におかんはほとほと疲れてまったらしく、
わしが東京でプー太郎をしていることを知り、手伝いをして欲しくてわしを呼んだらしい。
こうしてわしは宮崎で暮らすことになった。それは地獄の始まりだった。
地獄の介護生活の思い出
昔のことを、この荒ぶる海を眺めていたら不意に思い出してしまった。
じいさんは、わしにとって夢を叶えてくれる魔法使いだった。
じいさん「ドラねこ。欲しいものがあったら何でも言えよ。
わしがなんでも買ってきてやるからな(*´∀`*)」
じいちゃんはいつもそう言って、わしらに好きなおもちゃを買ってくれた。
おじいちゃんに頼めば何でも好きなモノを買ってくれる。
おじいちゃんは僕ら子供の味方なんだ。
僕ら孫のわがままをなんでも叶えてくれる存在なんだ。
そんなじいちゃんがたまらなく好きだった。
最初はじいさんも、久しぶりにわしという孫が静岡から宮崎に来たので喜んでいた。
しかし2週間を過ぎた頃、わしにもだんだんとこの家の状況がどうなっているのかが見えてきた。
孫が来て嬉しかった時期も過ぎた頃、
じいさんは、毎度自分が稼いだ金のことでおかんをしつこく問い詰めていた。
じいさんはこれまで肉体労働をして金を稼いできた人だった。
しかし、それでいて経済観念のない人だったので入って来た金を片っ端から使ってしまう人だったのだ。
その後末期ガンになったじいさんは、自分が末期ガンになったことが信じられず、腕に転移して骨を溶かし、地獄の痛みでじいさんを苦しめる痛みとずっと闘っていた。拭い去れない苛立ちとともに。
じいさんはなんとかその苦しみから逃れるため、色んな病院を渡り歩いて大量の湿布薬と痛み止めの薬(いわゆる麻薬の入ったもの)を手に入れて日夜使用し続けた。
おかげでじいさんは少しボケてしまい、自分が元々稼いだお金を、自分自身で使ってしまったことを忘れてしまった。
こうしてボケた老人は、そのなくなったお金をまったく無関係な、わざわざ自分の両親を介護しに来たおかんが盗んで使ってしまったと思い込み、日夜おかんを執拗に問い詰めるようになったのだ。
おかんもじいさんに負けず負けん気の強い女である。
じいさんが執拗に金について問い詰めるとオカンは声を大にして言い返す。
そして更にじいさんも大声で言い返す。その応酬である。その様子はさながら地獄絵図のようだった。
本人ももちろんそんなことはしたくなかっただろうが。
こうした言い争いは、じいさんが末期がんの宣告を受けて死ぬまでの間2年半(!)も続き、最後にはおかんは金切り声を挙げてじいさんに反論し、仕事に出かけていくという毎日を送っていた。
昼間老人ホームでも介護をし、家に帰ってきたらじいさんたちも介護するという二重介護の生活は、仕事もせずにただ家に居てボーっとしているわしには想像もつかないようなストレスだっただろう。
おかんは毎日、「頭が痛い。頭が痛い」と言っていた。
ツライ偏頭痛と起きたら毎日のごとく金の話を蒸し返してくるじいさんにヘトヘトになっていたのだ。
後日、じいさんが死んだ際に偏頭痛の原因を突き止めるべく病院でCTを撮って診てもらうと、脳に小豆ほどの大きさの動脈瘤が100個以上あったのだという。
医者「あ。でも、大丈夫ですよ。今はもうほとんど完治してますから(*´∀`*)」
と、医者に言われ、
おかん「あたしゃその時、背筋が寒くなったよ(;´Д`)」
と言っていた。
おかんにとって介護生活は、
それほどのストレスだったのである。
わしが宮崎に移り住んで一ヶ月もすると、そんなじいさんの執拗な攻撃がだんだんとわしにも及ぶようになってきた。
じいさんはなにもしないでただ毎日本とPCを睨めっこしているわしに対してたまらなく腹が立つらしい。
それでもわしはおかんに、ボケてしまったじいさんとまともに歩くこともできないばあちゃんを事故などがないように目を離さず監視しているよう仰せつかったので、仕事を探したくても家を開けることができなかったのだ。
これはたまらなく辛かった。
遊び盛りの20代の若者が、エアコンも漫画もゲームもTVも(宮崎の民放は2チャンネル。あとはNHKしかない)
他に娯楽なんかなにもない宮崎のど田舎で、何もせずに年寄りを見張っていなければならないことが
どれだけ辛かったことか!
別に年寄りの介護をすることに何の不満もないが、なにもやることがないのが辛かった(-_-;)
わしも居候の身であるから肩身を小さくし耐えて過ごしていたのだが、とうとう色んなストレスが積りに積もって積み重なり、些細なことでボケたじいさんと大ゲンカをしてしまう。
思い出の優しかったじいちゃんと
その時じいさんに、今まで見てきた昔のじいちゃんとは思えないようなひどいことを言われたりもした。
その時の一言は、今でもわしの胸に突き刺さっている。
あの優しかったじいちゃんに、あんなことを言われるなんて。
わしはひどくショックを受けた。
できるものなら、あんなじいさんを見たくなかった。
あそこまで意地の悪い醜態を見せられたくはなかった。
大好きなじいちゃんのままでいて欲しかった。
でももう時計の針は、もとに戻すことはできない。
こうして、わしは宮崎を出て行く決意をした。
じいさんが死ぬ直前の2週間前まで。
喫茶店に入ると、ばあちゃんたちはすでに頼んだものを食べ終えていた。
わしもおかんにコーラを頼んでもらい、ケーキか何かを食べたような気がする。
正直どんな味がしたのかよく覚えていない。
昔のこと、過ぎ去ってしまったことを、海を見ながら思い出していたらなんだか少し悲しくなった。
わしは、じいさんを許すことが出来たのだろうか?
ケーキを食べるわしを、おかんたちは黙って見つめながら窓から見える青く澄んだ海の波の音に耳を済ませていた。
九州の隠れパワースポット・江田神社
時間も四時を過ぎ始めたので、そろそろ帰ろうとおかんが言い出す。
しかしわしは、ここまで来たならどうしても行きたかった場所に連れていってもらう。
それはこのシーガイアの近くにある社で、日本の神話では重要な役割を果たした場所である。
あの江原啓之の「江原啓之神紀行4 九州・沖縄 」という本でも紹介された有名なパワースポットがここにあるのだ。
嫌々ながら車を走らせるおかんになんとか頼み込み、目的の場所まで連れていってもらうことにした。
入り口まで着くと、
おかん「私たち待ってるから一人で行ってこい。
早く帰ってこいよ。じゃないと置いてくぞ!(# ゚Д゚)」
といって車内で待つと言って聞かない。
仕方ないのでこうしてわし一人だけでその社に行くことになった。
むむむ、見るからにシンプルな門。
あたりはもうすでに4時を過ぎているというので、なんとなく寂しい雰囲気。この先にその社があるのか。
恥ずかしい木
参道を歩いてすぐの所で、なんか妙な木に出くわした。
おお!なんだこの木は!Σ(゚д゚lll)ガーン!
よく見ると、木の一部がもっこりしている。
な、なんだか、なんだか卑猥な木だなぁwww(=´▽`=)
ちょっとイヤラシイ感じのする木の出っ張った部分をさすりながら、わしは境内を目指す。
ここはちょっと珍しいご神体のある神社なのだ。
あまりにも広い境内を、きた道を戻ってくる参拝客に聞きつつ本殿へと向かう。
すると、目の前に大きな岩が待ち構えていた。
これがご神体!というわけではなくじつはこの神社…
この大きな池事態がご神体なのである!
おお!すっかりあたりは暗くなりかけているので人はほとんどいなけど、ここが御池か!
もうちょっと近くに近寄ってみようヽ(=´▽`=)ノ
江田神社(えだじんじゃ)は、宮崎県宮崎市阿波岐原町(あわぎがはらちょう)にある神社。式内社で、旧社格は県社。
『古事記』・『日本書紀』には、伊邪那岐尊が黄泉から帰還して禊を行ったという記述がある。禊を行なった場所について、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記すが、この「阿波岐原・檍原(あわきがはら)」が当地であると伝えられている。この地名は、全国の神社であげられる「祝詞」の冒頭でも「かけまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓えたまいしに」と読み上げられている。
当社近くの「みそぎ池」が伊邪那岐尊が禊を行った地と伝えられ、かつては入江であったが、後に開墾されて「江田」と称されたという[1]。なお上記の神話に基づき、当地はイザナギの子であるアマテラス・ツクヨミ・スサノオら三貴子や住吉三神の誕生地と伝えている。
すげぇ!なんてきれいな池なんだ。
ここが伊邪那岐尊が黄泉の穢れを払うために禊をした御池か!
池の中央には神域を表すしめ縄の白飾りが立っている。
向こうからの逆光が、なんだか神域っぽいっっっ!!!
ポイント
昔はここまで海があったのだそうな
すごい!いまではすっかり陸地が続いていてそんな風に見えない!
わしもこの地に立つことによって、今までの悲しい過去とじいさんへの思いを禊しよう。
あのツライ介護生活の思い出も……
じいさんへのわだかまりも……
みんなみんな、イザナギノミコトが黄泉の国のケガレをここで払い落としたように、すべてここで落としてしまうのだ。
そしてまた新しい自分になってこれからの人生を生きていこう。
この池に向かってお願いごとをしてみる。
ばあちゃんがこれからも元気で暮らして行けますように。
おかんが家をキレイに片付けますようにm(_ _)m
ああ、真剣に祈っていたらもう影がだんだん伸びてきた。
いかん、おかん達が待っているから池の周りをぱあっと一周して早く帰らなくては!
対岸から見る池の景色がまた素晴らしい!
最初来る前は「池が神域ってどういうことよ?行ってみたらどうせ普通の池だろう?」
とたかをくくっていたが、来てみたらここは素晴らしい!
ほんとはもっとここらへんでポッテリしたいけど、今回は時間がない!
名残惜しいけど、またここにくることを誓ってこの日はこの場を後にする。
なので足早に御池の周りを一周し、足早に帰ろう。
しかしホントにきれいなトコだなぁヽ(=´▽`=)ノ
来て実際に見てみると、この池が普通の池とは少し違うということがよくわかるや(*´∀`*)
後ろを振り帰ってもう一度お池を眺める。
よし!人生いろいろつらいこともあるけどがんばろう!江田神社が、そうわしに言ってくれたような気がした。
ありがとう。また来ます。今度は時間がある時にもっとゆっくりと。
こうして、宮崎に来た目的を一つ達成しつつ、ばあちゃんの帰りを待つ老人ホームに急いで行く。ばあちゃんの元気そうな顔も見れたし、もう心配はいらないな。
あとはもうひとつの目的地である霧島へ行くだけだ。
明日は霧島神宮を目指すぞ!