ちわ!おいさんだよーう。
暇つぶしに本を読んでいますかい?
いや、そもそも暇を楽しんでいますかい?
ヒマを楽しんでいる?
そう、今までわしは退屈したらランニングなど体を動かして退屈を紛らわしていたけど、ヒマということは実は悪くないのじゃ!
出たよ……今度は一体なんの風の吹き回しだ。
仕事もろくすっぽしねえでぼんやりしている自分を棚上げして自己慰撫してんのか?
「りんりがく」ってなんでしゅか?
前回まではこちら
保育園の是非?について考えてみたよ。という話(*´ω`*)
暇と退屈の倫理学
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退屈。
こんなことを言っていると「良いご身分だなぁ」と思わる方もいるかもしれない。
もしかしたら、「そんなに退屈な日々を過ごせるなんて、さぞやお金もたんまり貯めこんでリア充な生活を送っているんだろうね」と揶揄されるかもしれない。
しかし、わしはお金持ちでもないし、リア充でもない。
どちらかっていうと貧乏な非リア充の宇宙一の暇人である。
そんなわしはただのグータラだろうか?
しかし、実はこの退屈というものは別にわしだけが感じるものではないようだ。
本書のあとがきに書かれている筆者の言葉にはこう書かれている。
「おれはこういうことを考えているんだ。君はどう思う?」
と手渡せるものができたという意味である。
この本を本で取り上げた問題は何よりも自分自身が抱いていた悩みだった。
(中略)
とにかく本文で取り上げた退屈の苦しさを自分もずっと感じていた。しかし、それを考察してみることはなかなかできなかった。
(中略)
だがある時にこの自分の悩みを考察の対象にすることができるようになった。確か大学院の博士課程に入る頃だったと思う。どうしてそういうことができるようになったのか、自分でもよくわからなかったが、いま考えてみると、ある程度勉強したからだと思う。
哲学とか思想とかいった分野のことをすこしだが勉強して、自分の悩みとどう向き合っていけばよいかが分かってきたのである。勉強というのはなんとすばらしいものであろうか。
そうやって始めた考察を今の段階でまとめたのが本書である。
p359・360
この本の著者である國分功一郎氏は、長い間自分の内面から湧き上がってくる「退屈とは何か?」「なぜこんなにも日常に退屈するのか?」という思いを抱きながら生きてきたという。そうした一見有名大学を出たエリートである著者にも、日々生きていて満たされない「退屈」という感情がつきまとっていたのだ。
本書はあくまでもそうした人間誰もが持つであろう「暇」と「退屈」をどうやったら克服するかを哲学と思想の点から論じた本である。
断っておくが本書は全ての人間に合うような暇と退屈の「答え」はない。
本書を参考にしながらも読者各々が自身の退屈について、「自分の頭で」考えていく本である。
それでは少し誰もが感じる「退屈」というものいついて考えてみよう。
人はなぜ退屈するか? 退屈のメカニズム
退屈ってなんだろう?人はなぜ退屈するのだろう?
それを哲学的に日々の中で考えて生きている人がどれくらいいるのだろう?
アレンカ・ジュパンチッチ(1966〜)という哲学者が大変興味深く、そして大変恐ろしいことを述べている。
(中略)
近代はこれまで信じられてきた価値に代わって、「生命ほど尊いものはない」という原理しか提出できなかった。
この原理は正しい。
しかし、それはあまりに「正しい」が故に誰にも反論できない。
そのような原理にすぎない。
それは人を奮い立たせない。人を突き動かさない。
そのため、国家や民族といった「伝統的」な価値観への回帰が魅力を持つようになってしまった。
だが、それだけではない。人は自分を奮いたたせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。なのに、世間で通用している原理にはそんな力はない。
だから突き動かされている人間をうらやましく思うようになる。
大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。
人々は彼らを、おそろしくもうらやましいと思うようになっている。
p28
現代の我々が感じる退屈の根幹には、こうした「生命をかけて成し遂げる何か」の枯渇が深く関わっていると指摘している。
これは確かに慧眼であろう。
わし等が生きるこの世の中がここまで平和になってしまうと、若者は特に自分の若さを傾けられるようなものが見つからず、日々を悶々とした葛藤の中で生きていくしか出来ない。
いわゆる内向きな自分のできあがりである。
だからと言って決して平和が嫌なわけではないのだけれども、その平和が続く世の中では自分が生きる意味を見つけられないでいる人がほとんどなのではないだろうか?
本書の序章でスロヴェニアの哲学者アレンカ・ジュパンチッチの言葉を紹介した。彼女はこう言っていた。
大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たちを、私たちはおそろしいと思うと同時にうらやましくも思っていると。
なぜ人は過激派や狂信者たちをうらやむのか?いまや私たちはこの問に明確に答えることができる。過激派や狂信者たちは、「なんとなく退屈だ」の声から自由であるように見えるからだ。
彼らはおそろしいと同時にうらやましく思えるとき、人はこの声に耐えきれなくなりつつあり、目をつぶり、耳をふさいで一つのミッションを遂行する、すなわち奴隷になることを夢見ているのだ。
p321
退屈な自分から自由でいたい人間は身の回りにあるもの、例えばある人は仕事に没頭したり、ギャンブルに没頭したり、散財することに没頭したり、様々な「ミッション」を遂行するようになる。つまりは奴隷化である。
人間は世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではない。
人間は環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈するのである。
p288
「環世界」とはエストニア生まれの理論生物学者ユスキュルによって唱えられた概念で、「全ての生物は別々の時間と空間を生きている」ということである。
まるでSFみたいな話だが、わかりやすく言うと、「トカゲにはトカゲの環世界」が「ミツバチにはミツバチの環世界」が「人間には人間の環世界」があるように、それぞれ生物によって、同じ時間と空間を生きているように見えて、実は全く別々の時間と空間を生きているんだよ、ということである。
「人間は環世界を相当な自由度をもって移動できる」ということは、トカゲやミツバチと違って人間だけがそれぞれの興味がある環世界(=天文学者には天文学者の環世界。鉱物学者には鉱物学者の環世界。音楽家は音楽家の環世界。)を自由に行き来して日々を生きているのだ。
人間は容易に一つの世界から離れて、別の世界へと移行してしまうのだった。(中略)退屈しつつも、様々な気晴らしを恒常的に自らに与える。今日は映画に行き、明日はパーティーに行く。(中略)楽しさもそれなりにあるが、楽しさもそれなりにある。これが人間らしい生である。
しかしこの人間らしい生が崩れることがある。
何らかの衝撃によって己の環世界を破壊された人間が、そこから思考し始める時である。世界を揺るがすニュースでもいい、身近な出来事でもいい、芸術作品でもいい、新しい考えでもいい。環世界に「不法侵入」してきた何らかの対象が、その人間を掴み、放さない。その時、人はその対象によって<とりさらわれ>、その対象について思考することしかできなくなる。
考えるとは何かによって<とりさらわれ>ることだ。その時、人はその対象によってもたらされた新しい環世界の中にひたる他なくなる。
そして衝撃によって<とりさらわれ>て、一つの環世界にひたっていることが得意なのが動物であるのなら、この状態を<動物になること>と称することができよう。人間は<動物になること>がある。
退屈することを強く運命づけられた人間的な生。
しかしそこには、人間らしさから逃れる可能性も残されている。それが<動物になること>という可能性である。
p332・333
つまり、趣味や仕事の世界を自由に行き来出来るが故に「退屈」を感じてしまうということなのだ。
「仕事」だけではなく退屈を紛らわすはずの「趣味」が、逆に人間に退屈を与えてしまうのである。
退屈の処方箋
では退屈を紛らわすには何をしたらいいか?
「仕事」をしていても「趣味」に没頭していても、人間は退屈から逃れられない。
その一つの答えに筆者は以外にも「浪費」をすること、と答えている。
詳しく見てみよう。
浪費とは何か?
浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使い切れないものが浪費の前提である。
浪費は満足をもたらす、理由は簡単だ。
物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。
つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。
p144・145
よく「浪費」と「消費」は混同されるが、筆者によれば両者には明確な違いがあるという。それでは「消費」とは何か?という……
そして消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者が消費し続けるように仕向ける。消費社会は私たちを浪費ではなくて消費へと駆り立てる。消費社会としては浪費されては困るのだ。
なぜなら浪費は満足をもたらしてしまうからだ。
消費社会は、私たちが浪費家ではなく消費者になって、絶えざる観念の消費のゲームを続けることをもとめるのである。
消費社会とは、人々が浪費をするのを妨げる社会である。
p150
つまりは「浪費」とは満足をもたらすものであり、「消費」は「絶えることなく観念の消費のゲームを続けることを求める」ものなのだそうな。
贅沢を取り戻す
これのドコが「退屈」紛らわすための方法なのだろう?
しばしば、消費社会に対する批判は、つつましい質素な生活の推奨を伴う。「消費社会は物を浪費する」「人々は消費社会がもたらす贅沢になれてしまっている」「人々はガマンして質素に暮らさねばならない」。
日本でもかつて「清貧の思想」というのが流行ったがまさしくこれだ。
そうした「思想」は根本的な勘違いにもとづいている。
消費は贅沢などもたらさない。消費する人は物を受け取らないのだから、消費はむしろ贅沢を遠ざけている。
消費は徹底して推し進めようとする消費社会は、私たちから浪費と贅沢を奪っている。
p151
そう、つまりは人間に満足をもたらすためには何か自分にあったものを「浪費」することによって初めて可能であると、筆者は言っている。
ではその「何か」とはなんであるか?というと、それは「贅沢を取り戻すこと」である。
以上を前提として導き出される2つ目の結論、それは贅沢を取り戻すことである。
贅沢とは浪費することであり、浪費するとは必要の限界を超えて物を受け取ることであり、浪費こそは豊かさの条件であった。
現代社会ではその浪費が妨げられている。
人々は浪費家ではなくて、消費者になることを強いられている。
物を受け取るのではなくて、終わることのない観念消費のゲームを続けている。
浪費は物を過剰に受け取ることだが、物の受け取りには限界があるから、それはどこかでストップする。そこに現れる状態が満足である。
それに対して、消費はものではなくて観念を対象にしているから、いつまでも終わらない。終わらないし、満足も得られないから、満足を求めて消費すればするほど、満足が遠のく。そこに退屈が現れる。
これこそが現代の消費社会によって引き起こされる退屈の姿であり、本書ではこれを阻害と呼んだ。
p342・343
人間の退屈を紛らわせるものは、「労働」でも「消費」でもない。
「贅沢」を求めることによって、初めて真の「退屈」からの脱却が図れるのだ。
「贅沢」というとなんだか誤解されてしまうが、それは別にたくさんの物を持つことだけにとどまらず、高い教養に裏打ちされた「文化」を学ぶこと、またそれを楽しむことで「贅沢」を「浪費」することができると筆者は言っている。
いつまでも終わらない消費社会にうんざりしている人は、身の回りにある「文化」。例えば文学・音楽・絵画・など様々なモノを「浪費」することによって「贅沢」を取り戻してみてはどうだろうか?
その方が、人生を楽しく学ぶことができそうな気がする(*´∀`*)