こんちわ、おいさんだよ。
キミは憲法を真剣に学んだことはあるかい?
なんだケンポウ?
カンフーみたいなヤツか?
映画とかにでてくるよね!
ポポポ!
違うわい!
だれもジャッキー・チェンやブルース・リーのことを言ってるんじゃないわい。
「ケンポウ」とは日本国憲法のことじゃ!
なんだそっちの方か。
最近は憲法解釈について巷間騒がせているし、集団的自衛権とか個別的自衛権と色々難しい言葉が飛び交っているけど、わしらはそもそも憲法というものをわかっているのか?
今回はそんな疑問点から「痛快!憲法学」を紹介するのじゃ!
前回まではこちら
腰痛の治し方を勉強してみたよ。という話(*´ω`*)
痛快!憲法学
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憲法。
わしはずっとこの「けんぽー」なるものが至極大切なものであると教わってきた。
中学生のころからこの日本国憲法の大切さを散々教わり、それ以前の聖徳太子の十七条憲法や大日本帝国憲法は平和憲法とはかけ離れた唾棄すべきものだと教わってきた。
しかし、実はそれは間違っていることに気がついた。
日本国憲法は世界に輝く平和憲法ではない。
なぜならすでに日本国憲法は死んでいるからだ。
死んでいる?
妙なことを言うように思われるだろう。
しかし、憲法とはいつでも守らせる側がその意義を意識しなければすぐに死んでしまうものだからである。
そもそも憲法とは、わしら一般人を縛るものではない。
国民は実は憲法に縛られなくてもいいものなのだ。
おいおい、こいつは一体何をいってるんだ?(;´∀`)
世界に輝く平和憲法を愚弄する気か?(; ・`ω・´)
オマエはひょっとして右翼か?(# ゚Д゚)
と、左翼の方々は思うことだろう。でもそうではないのだ。
その意味をこれからおいおい解説していこう。
憲法とはなにか?
小室直樹氏といえば、知る人ぞ知る経済学や社会学や法学など様々な学問を収めた学者として知られる日本が生んだ大天才である。
本書はそんな小室氏が、憲法についておもしろいほどわかりやすく解説している日本人のための憲法入門書である。
これを読めば憲法とはなにかがたちどころにわかってしまう。そんな便利な本なのだ。
昨今の憲法解釈を考える際に、必ず読んでおきたい名著である。
そんな憲法であるが、
実は日本人は憲法とはなんなのかイマイチ分かっていない。
それはあろうことか自民党の議員でさえわかっていないほどだ。
自民党が出してきた改憲草案の第二稿を読んで見ればよくわかる。
それほど今の日本人は憲法というものがなんなのかよくわかっていないというのだ。
では、一体憲法とはなんなのか?
憲法を殺しているのは日本人?
日本人にはそもそも憲法というものが理解できない。
それもそのはず、欧米では多くの国民が血を流した末に国家に結ばせた契約が憲法であるからである。
欧米人は感覚として、それをしっかり知っている。
契約。
日本人にはこの契約というものを理解している者は少ない。
なぜなら日本という国は高トラスト社会。
いわゆる日本の隅々まで信用で成り立っている国だからである。
こんなことを書くと、
「オマエはアホか?日本でも契約書とか書くじゃねぇかよ!アパートの契約書とか、銀行の契約書とか知らねぇのか?(# ゚Д゚)」
と言われる方もおるだろう。
しかし契約とは、
そもそもが相互に不信感を持っている場合に発生するものである。
トラスト(信頼)で成り立っているということは、先の東日本大震災などで被災者が暴徒にならずに整然と順番を守って救助を待つ姿にも見て取れる。
それは日本人が、日本という国を心のどこかでお上を信用しているから、暴動や略奪などを起こさずにいられるのである。
たとえ被災しても辛抱強く待っていればいつかお上が助けてくれる。そうした信用が日本人の心のどこかにはある。
そのおかげで大規模な暴動なども起こらずに世界中から秩序を持ったお互いを助け合える国、と賞賛を浴びることができたのだ。
これがトラスト(信用)に支えられた社会の姿である。
日本はこれが異常に高いのだ(高トラスト社会)
一方、欧米ではこのようにはいかない。
そもそも契約の始まりとはユダヤ教の契約(モーゼの十戒)から始まりその根底には必ず不信感がある。
ヨーロッパの国々では様々な部族がひしめき合い、ローマ帝国の統治に陰りが見えてきた時から長々と戦争をしてその国境線を決めて来た歴史がある。
自分と種族の違う者同士ではいつまた裏切られるか信用出来ない。
つまり信用出来ない相手とは契約を結ぶ必要があるのだ。
それは古くは中世の王侯や貴族たちの間で、王が貴族などに無断で自らが強い軍隊を持ち、いつでも貴族たちを切り捨てられる状態になった時、貴族たちが危機感を覚え、王に約束を守らせるために契約というものを結ばせたことから発生したのだ。
まぁこうした点は詳しくは本書を読んでいただければよくわかると思う。
なので欧米では契約の観念が強い。
しかし日本人には欧米のように契約というものの概念がわからない。
信用でなんでも成り立ってしまう社会では契約などそもそもいらないからだ。
その点、日本は欧米に比べて契約するにしても圧倒的にユルい。
いくら身近に契約というものがあったとしても、アレもコレも契約だらけという感じで欧米ほど契約で社会が成り立ってはいないのだ。
こうした、契約に関する感覚の欠如が、憲法を死なせる原因であると小室直樹氏は指摘している。
憲法はリヴァイアサンを縛るもの
それではそもそも憲法とはなんなのか?
もうそろそろ結論をいうと、憲法とは巨大な怪物を縛るもの。
巨大な怪物とは国家。
欧米では国家を巨大な怪物となぞらえてリヴァイアサンと呼んでいた。
つまり、憲法とはもともと巨大な権力を持つ、リヴァイアサンを縛るものなのだ!
欧米には自らが血を流して国家に契約を結ばせるという感覚がある。
何度も国家に裏切られた経験を持つがゆえ、革命の後に革命の終了を宣言するために出されるもの、それが憲法である。
マグナカルタやアメリカの独立宣言などがそれにあたる。
しかし日本人にはそうした自らが血を流して国家に結ばせた契約などという感覚は皆無である。それは明治維新を見ていればわかる。
「いつの間にやらできていて、いつの間にやらお上から押し頂いたもの」という感覚が非常に強い。
しかし憲法とは国民が押し頂くものではなく、いつ暴走するかわからない国家を縛る鎖なのである!
それなのに日本人は、国民を縛るべき鎖だと勘違いをしている。
そんな契約とはなにか?ということがわかっていない日本人は、いくら新しい憲法を作ったとしてもすぐに死なせてしまうのだ。
これは護憲だとか改憲だとかいう前にわし等が持っている憲法に対するリアルな感覚である。
恐るべきアホ左翼教師
そんな憲法についてわしには嫌な思い出がある。
それは高校3年の公民の授業の時、それまで公民の教師であった先生が諸事情で一年ほど学校に来れなくなった時があった。
新しく臨時でやってきた先生が公民を教えるために登壇した。
この先公は(ここではあえて先公と呼ばせていただこう。)全くもって退屈な授業をする男だった。
もちろん生徒からの人望もなく嫌がられる存在。
そんな教師がやった授業のうち、あろうことかこのアホ教師は農業高校の生徒であるわしらに対して、教科書の後ろに乗っている日本国憲法を全文写すことを強要した。
その教師は日本国憲法をズラズラと黒板に板書し、それをわしらは必死になって書いていくという地獄を体感することになるw
あまりの字数の多さにおかけで手が痛くなり、この時わしは腱鞘炎を長いこと患うことになった。今でもこの恨みは忘れてはいない。
そしてこのアホな社会科教師は、いずれ書き写した日本国憲法のノートを提出してもらい、書かなかったものには成績をつけないとも言い放った。
みんなこの一言に驚愕した。
しかし、もっと驚愕したのは次の言葉であった。
それは、丸写しした日本国憲法をいずれ丸暗記してもらい、教壇の上に立ってみんなの前で発表してもらうと言い放ったことだった!
何だそりゃ!?
なんで日本国憲法なんて膨大なモノを丸暗記する必要があるんだ?全く意味が無い!
弁護士や検察など、いずれエリートや官僚などの国家権力側になる者を排出する進学校ならまだしも、明日に農業で生活を建てようとする一般市民がそんなものを丸暗記することにどんな意味があるのか?
日本国憲法について学ばせたいなら中学でさらっと概要を話せば良いのだ。残念ながら今の日本国憲法は高校生が暗記するほどの価値があるものではない。ましてや、改憲などされたらそれまで覚えていたものなど、全く無に帰するのだ。
何度もいうが、
憲法とは国民が守るものではなく、国家が守るべきものである!
この教師は残念ながら憲法というものをなにもわかっていない。
憲法を押し頂くべく立派な金科玉条か何かと勘違いしている。
みんながありがたく思って縛られるべきピンク色の鎖か何かかと思っている。
アホかっ!(# ゚Д゚)
なんでわしら国民がそんな鎖で縛られなくちゃならないんだ!
縛るべきは恐るべき国家だろ!きっと頭にお花畑が咲いている左翼教師だったのだろう。
イカれているとしか思えない。
大学を出ていて教職課程を取っている者ですらこの有り様。
いわんや一般市民である我々は憲法というものを理解していないということは明白であろう。
その後、結局色んな都合があって日本国憲法を丸暗記して発表するということはうやむやになり消滅してしまった。
クラス中の生徒がホッと胸をなでおろしたのは言うまでもない。
あの時、この「痛快!憲法学」に出会っていたなら!
そんな調子だから、日本人はまず護憲か?改憲か?とか言う前に、憲法というものがどういうものであるのかを学び直すことが必要なんじゃないだろうか?
その過程なくして、憲法論を振りかざしてもきっと空理空論だろう。
最後にゴー宣道場のブログに載ってこんな話を掲載しておく。
日曜の「ゴー宣道場」は「憲法」の本質を理解してもらう
ために、高森氏とわしが講義をしてるような風になってしまったが、あれだけのことは伝えておかねばならなかった。
一つ、わしのミスを書いておきたい。
憲法は成文法だが結局は「慣習法」です、と言うべきを、「不文法」と言ってしまった。あれは言い間違い。
憲法は国家権力(天皇、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員)が守らなければ形骸化してしまう。
天皇陛下は立憲主義の意味を知っておられるから、絶対に、厳格に守っておられる。
だが国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、憲法を守らない恐れがある。
国民が憲法に関心を持たずに、国家権力の監視を怠り、彼らに憲法を守らせなければ、たちまち形骸化する。
だから憲法は成文化していても、結局は「慣習法」なのだ。
国民が国家権力を監視すべきということは、マスコミにこそ、その重大な使命があるのだが、残念ながらマスコミも、国家権力の広報紙に成り下がってる例が見られる。
例えば読売新聞や産経新聞はその傾向が顕著だ。
国民のほとんどが「憲法は、国民による国家権力への命令書」ということを知らないのだ。
せめてその本質を徹底的にわかってもらわねばという危機感から、昨日の「ゴー宣道場」は、啓蒙活動になってしまった。
ブログ-よしりんの「あのな、教えたろか。」 - ゴー宣ネット道場
日本人の多くが憲法の本質に気付くことを祈る。