こんちわ、おいさんだよ。
キミは幻影を観たことはあるかい?
なんだ?変なクスリでもやったのか?
カゼひいたの?
ポポポ?
ちがうわい!
本を読んでいて幻影を観たことはあるか?と聞いているのじゃ!
なんだそれ?
あるわけないだろ!
本書は柴田元幸氏が翻訳したポール・オースターの2002年に刊行された13作目の小説である。
そこで今回は「幻影の書 (新潮文庫)」をご紹介しよう。
前回まではこちら
村上春樹のジャズ入門。という話(*´ω`*)
幻影の書
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「幻影の書」を読んだ。
なんとも味わい深く、それでいてここで語りにくい本である。
では今回の本はどういった作品なのだろう?
一言で表すとまさしく「幻影」といっていいだろう。
ポール・オースターの作品に一概に共通することだが、彼の描く小説の物語性にはいつも「幻想」の様子が色濃く反映されているように思う。
今回はその印象がさらに強くなり、
「幻影」と言っても良いところまで高められているような気がした。
そう、この本は読んでもなにも無いのである。
なにも無いとは「面白くない」ということではない。
無内容ということとも違う。
「面白い」には「面白い」。
しかし、ただ単純に、「面白かった」で語り終えてしまえるような物語ではないということだ。(またこの記事を読んでいる読者も鼻白みモノだろう)
この作品があまりにも荒唐無稽・複雑怪奇な運命に富んでいて、読者はまるで物語のヘクター・マンと同じく、その数奇でグロテスクな人生に翻弄されてしまい、読後その物語を上手く飲み込めないのだ。
まるで失語症のように、今見てきたこの物語を他の言語に移し替えて人に伝えることが困難な物語であると言っていいだろう。
ええいっ!頭のなかがごちゃごちゃしてきたwww
見てきたと言えども語れない
本書についてあらすじを記してみよう。
あらすじ
飛行機事故で妻子を失った主人公「私」を
絶望の淵から救ったのはヘクター・マンの「無声映画」がだった。
ヘクター・マンは数々の無声映画に出演していたコメディ俳優で、チャップリン、バスター・キートン、ハロルド・ロイドのような輝かしい経歴に彩られたスターたちとは違い、あまり世間に知られた存在ではなかったものの、彼が作る無声映画は確実に「私」のなにかに触れ、家族を失った悲しみを忘れて久しぶりに笑うことができた。
そんな「私」は、ヘクター・マンについて本を書くことを決意する。
しかし、ヘクター・マンはある日ハリウッドの映画産業から忽然と姿を消してしまい、その後の彼の消息を知るものは誰もいない。
そこでわずかな手がかりを元に彼の生涯に迫っていくと、ある日不思議な手紙が「私」の元に舞い込んでくる。
それからというもの「私」の運命はヘクター・マンの生涯と同じく、まるで信じられない結末が「私」を待っているのだった。
まずこの作品の重要なモチーフが「映画」であること。
この物語は映画好きが好じてポール・オースターが作成した架空の「映画」を元に構成されている小説だ。
それはまさしく「幻影」そのもの。
その物語は詳しくはここでは述べられない。
ただ一言言わせて貰えれば、
見てきたといえども語れない。
そんな「物語」である。
翻訳者・柴田元幸氏の空白
その証拠にこの本の翻訳者である柴田元幸氏も、訳者あとがきであまりこの本の内容について深く触れてはいない。
正直いってわしはこの柴田元幸さんの訳者あとがきを毎回楽しみに読んでいる読者の一人である。
毎回物語を読み終えた後に、翻訳者である柴田さんが何を思い、何を語るか、
その文章を読むことが我々読者に今くぐり抜けてきた物語に対する一つのヒントを与えてくれるからだ。
そうした柴田さんの解説が毎回必ず我々を物語の非日常性から日常へと救い出してくれているような気がしていた。
しかし、今回に限ってそれはない。
少なくともあとがきで物語に対する具体的なことを語られていない。
いや、語ってはいないのではない。語れないのだ。
この感じは、まるでガルシア=マルケスの「百年の孤独」や、村上春樹氏の「ねじまき鳥クロニクル」に通じるものがあると個人的には思う。
その物語自体が鬱蒼とした現象で絡みあい、一言でいま見てきたことを言い表すことを拒否しているような複雑な構造になっているからである。
故に言葉にすることがあまり有効なことだとは思えない。
壮大な旅から帰ってきて、どっと疲れて今起こったことはなんだったのか?と重たい頭を引きずりながら考えるようなもので、それは読後やるにはいささかしんどい。
見てきたといえども語れない。
まさしくそれは「幻影」なのである。
今、わしが見てきた物語は「幻影」だったのだ。
そんな奥深い物語性を本書は備えている。
秋の夜長にそんな幻想的な物語に耽ってみるのはどうだろうか?