こんちわ、この秋はなんだか少し肌寒いね。キミは元気に読書してるかい?
今日も引きこもって本を読むんだな?今日はなんだ?
おもしろい本かな?
ポポポ!
う~ん、わしにとってはおもしろいんだけど、リクにはちょっとどうかなぁ?
なんと言っても頭山満が中心になった亜細亜主義の顛末について書いた本だからなぁ…
ちょっとむずかしいかもしれないぞ。
そこで今回は、グローバライゼーションは多くの人を幸せにするのか?という疑問を元に「亜細亜主義の顛末に学べ―宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス」を読み解いてみることにしよう!
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亜細亜主義の顛末に学べ
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読んでみてびっくりした。
「亜細亜主義の顛末に学べ」は出版されてから少し前の本にもかかわらず当時と現在の日本の状況をここまで克明に予想していることにまず驚かされる。
いや、ある程度の知識のある人ならこれくらいの予想はついたのかもしれないが、それにしても驚きである。
「亜細亜主義の顛末」なんてすごい名前が付いているが、この本はグローバライゼーションが地域の共同体を如何に破壊して、世界各地をのっぺりとした「入れ替え可能な地」と変え、そんな状況を21世紀の我々はどう迎えたらよいかという視点で、19世紀に沸き起こった亜細亜主義を元に現在の日本のあるべき姿を考えていこうとする本である。
本書を詳しく語る前にまずは亜細亜主義について説明しよう。
アジア主義(アジアしゅぎ)、または汎アジア主義(はんアジアしゅぎ、英語: Pan-Asianism)とは、日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗する方策として展開された。
亜細亜主義とは頭山満など「玄洋社」のメンバーなどに代表される、「東アジア一帯はアジア的なるものを抱えながら国や人種の壁を超えて連帯し、欧米に対抗していこうじゃないか」という思想である。
これは口で説明するよりも「大東亜論 巨傑誕生篇」を読んでいただければその内容がわかるだろう。
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「大東亜論」は頭山満を主人公した19世紀に活躍し、そして今では忘れさられた熱き日本男子たちの物語である。
アメリカ主導の「グローバライゼーション」
次に本書において何度も出てくる重要な言葉で「グローバライゼーション」という言葉がある。
改めて意味を教えることもないだろうが、「グローバライゼーション」とは
グローバライゼーションは冷戦体制の終焉で起こりましたが、三つの側面があります。第一は「軍事力一極集中化」。第二は「高度情報社会化」。第三は「アメリカン・ウェイ・オブ・ライツの浸透」。
第三を注釈すると、みなさんよくご存知の「マクドナルド的なもの」です。この三つが緊密に集約します。
「亜細亜主義の顛末に学べ」p17
第一の「軍事力一極集中化」とはつまりはパクス・アメリカーナのこと。
第二の「高度情報社会化」はIT革命によって世界中の隅々まで張り巡らされたインターネットなどのIT社会のこと。
第三の「アメリカン・ウェイ・オブ・ライツの浸透」がいわゆるスタバやマクドナルド、ディズニーなどの非常に合理化された巨大資本を背景に持つ巨大企業のこと。
グローバリズムとは、軍事的覇権を背景にした経済的覇権の追求で、レーニンが問題にした帝国主義です。
今問題のグローバライゼーションはそれとは異なり、経済的覇権を受け入れる側の自発性を前提とします。
p30
レーニンの提唱した帝国主義とは違った巨大資本主導の経済的覇権の争い、と考えておけばいいだろう。
巨大資本なんて、今の日本を見渡せばあちこちに様々な外国資本がいきわたっていることがお分かりになるだろう。
そんな現在の日本を取り巻く「グローバライゼーション」の波を、我々日本人は明治の時代から何かというと諸手を挙げて自分の頭で深くモノを考えずに受け入れてきた。
しかしその弊害は現在、様々な姿で我々の前に見せつつある。
具体的に言うと巨大資本は地方を疲弊させ、格差を拡げる元凶となっているのである。
なんてことを言うと、共産党みたいな感じになってしまうが、
でもそれは都心以外に住む地方在住者は街に出てみればよくわかることだろう。
「グローバライゼーション」の入れ替え可能性
宮台氏はこうしたグローバライゼーションがもたらす弊害にもう一つ警鐘を鳴らしている。
それがグローバライゼーションの持つ「入れ替え可能性」という問題だ。
第三に重要なのは「近代化の両義性」です。
良かれと思ってなす近代化は必ずしも幸せを保証しません。先に述べた西郷隆盛と岩倉使節団の対立を見ると、西郷は大久保利通のような単純欧化主義者を、私腹を肥やす売国の輩として攻撃しました。
日本が列強に屠られないためには欧化が不可欠たることは間違いない。でも単に欧化するだけでは、従属的立場に陥るのみならず、日本は他国と入れ替え可能な場所となる。産業化や富国強兵だけではダメだというのです。入れ替え不可能なパトリとは何か。それが亜細亜主義の出発点でした。
p43・44
グローバライゼーションが起こす弊害は、日本という国が欧米となんら変わらないものになってしまうということ。
それは進むとこの国が持つ良さを殺し、単なる欧米の模倣にとどまってそうした国々となんら違いのない「入れ替え可能な」国柄になってしまう。
具体的に言えば、明治の頃より日本は欧米に追いつけ追い越せと様々な欧化政策を行ってきたが、それがいつしか日本は「世界の工場」と呼ばれるまでに工業化を推し進め、欧米を圧倒する存在にまでなった。
もう手に入れるものは何もなくなった状況なのに、未だにバカの一つ覚えのようアメリカの意のままにさらなる「欧化」を進めようとしている。
その最後の締めくくりが、今の安倍晋三が推し進める従米法案である安保法制などである。
あれが強行採決されたおかげで、この国はアメリカの泥沼のテロ戦争に巻き込まれる可能性がある。こうしてアメリカの思う壺である日本は、売国奴の手によって自ら戦後レジームを完成させてしまうかもしれない。
今の政治家は大したビジョンもなく、ただ単純に自らの私腹を肥やすために「欧化」を叫ぶ。
しかしここで宮台氏が指摘するように、単純な「欧化」は我々を幸せにはしない。むしろ国柄を破壊してどんどんおかしなところへ向かうのだろう。
そうした動きは最近の自民党を見ていればよく分かる。
彼らは自らの頭で考えることを放棄し、一人の独裁者について行くことを選んだのだ。
そんな奴らは所詮、属国思考の奴隷なのかもしれない。
多くの愛国心を持つと自称するものが、
彼らはそもそも「本当の愛国心」とはどういうものが分かっているのだろうか?
愛国心とはなんだろう?
愛国心はこういう比喩で考えたらいい。
「国家」とは大きな乗り物、いわばバスです。乗合バスというより長距離バス。バスには運転手と乗客が乗っている。運転手が統治権力、乗客は国民。バスには人々と一緒に「ヘリテージ」すなわち「相続財産」も積まれている。愛国心とはバスに乗せてきた乗客たちとヘリテージを守ろうとする思いです。
自分たちとヘリテージを守るために、乗客たちが運転手を選んで、バスを運転させている。
ヘリテージを守れないなら、運転手はクビ。あるいはバスもお払い箱。
乗客たちは国民。バスは国家機構。運転手は統治権力。ヘリテージは国民財産です。
国民と国民財産を守るための手段が国家だというのが近代的愛国心です。
p109
続けて宮台氏はこう指摘する。
愛国心とは、国民と国民的財産を守るために、統治権力と統治機構をちゃんと操縦しようと頑張る志のことです。
生まれた国だから国家を愛せとか、統治権力を愛せなどというのは、意味不明です。
守るべき国民的財産のイメージがわかないのなら、そもそも愛国心などわきようもありません。
p111
わしはネットなどに現れる愛国者たちに疑問をいだいていたが、この宮台氏の言葉を読んで納得がいった。
自らの頭で考えずに「生まれた国だから国家を愛せ」と声高に叫んでいる排外主義者たち。こうした者たちが実は愛国心の仮面を被った真の売国奴たちなのだと妙に納得して、本を閉じた。
戦後70週年を過ぎたいまこそ、頭山満たちによって提唱された亜細亜主義という思想は、大きなヒントになるのではないだろうか?
この本を読んでもう少しデカイ男になりたいものである。