ちわ、おいさんだよ。
キミはより良い読書をするための本を読んだことはあるかい?
「より良い読書のための本」ってなんだよ?
本なんて普通に読みゃいいだろう?
ところがそうじゃないんだよ。
本を読むにしてもその本に書いてあることをよく理解するためのコツがあるのじゃ。
コツ?
どんなコツだよ?
それでは今回はそんな「本を読む本 (講談社学術文庫)」から読書のコツを紹介しよう。
前回まではこちら
ビッグデータがこれからすごいよ!という話(*´ω`*)
-
ビッグデータは喜べない?情報産業革命が引き起こす負の側面?
続きを見る
本を読む本
|
一年に最低でも100冊以上は本を読む。
10年前から急に読書の必要性を感じて始めたが、最近になってその読書の仕方に疑問を持ち始めた。
まず、わし自身、本を読んでいるのに一向に頭が良くなったようには思えないということ。
読めば読むほどわしの出来の悪い頭は昔より生産性が落ちているような気がする。
何も知らないあの頃はそれだけ楽に生きれた。
しかし長い人生を生きてきて、色んなことを本で知る度に自分がいかに物を知らないかということを痛感せざるをえない。
わしの頭では考えきれないような問題がたくさんあって、カンタンには答えがでないその問題に頭が痛くなるw
世の中のことにしろ、経済のことにしろ、自分のことにしろ、読めばなんとか生きていくすべが見つかるだろうと思って始めた読書が、直接的には今のところなんの恩恵ももたらさない。
いつまでたってもわしは相変わらずフリーランスだし、貧乏である。
以前も紹介した北方謙三氏の言葉を胸に、本の前で修行するつもりでいたのだ。
しかしここに来て読書というものが実は自分の人生に直接的には何の利益も生み出さないのではないか?というギモンを持ち始めたところに、本書に出会った。
量よりも質を高める読書法
それでは読書というものに本当に意味が無いのだろうか。
もちろん答えは「否」である。
では実際に即物的に効果があるかといえば、ワシ自身まだハッキリと答えることができない。
そこでわしは今までのように大量の本を片っ端から貪るように読むのは辞めて、もう少しじっくりと本を読んだ方が良いのではないか?と思い始めた。要は、量よりも質を求めはじめたということである。
例えば本書「本を読む本」には点検読書2表面読みというところにこんな風に書いてある。
賢くなりたいという高邁な望みを抱いてむずかしい本を読み始めたのに徒労に終わったという経験は誰にでもある。(中略)正しい近づきかたとは何か、それは、次の規則を守ることである。難解な本にはじめて取り組むときは、とにかく読み通すことだけを心がける。
すぐには理解できない箇所があっても、考えこんだり語句調べに手間取ったりしていないで先へと進むのである。
理解できることだけを心にとめ難解な部分はとばして、どんどん読み続ける。脚注・注解、引用文献もここでは参照しない。
いまそういうことにこだわっても、どうせわかりはしないのだから、こういう「つまづきのもと」はなるべく避けて、とにかく通読することだ。最初の半分しかわからなくても、再読すれば、ずっとよくわかるようになるに違いない。
p44・45
大学時代はわしも出来の悪い頭を良くしたい一心で、少々難解な本を無理してわかった風に読んでいた(今でも)しかし、それだけで簡単に頭が良くなるわけではないw
内容の濃い書物は、
かみ砕くように何度も読まなくては書かれていることを100%理解することはできない。
当たり前と言えば当たり前だが、それまではそんなことお構いなしにただ読み進めることだけに心を砕いていた。ただただ大量の本を読む。それだけがわしの日課だった。
しかし上述のようにそうしたスタイルも実は悪くない。
それは最初に読んだ本に限ってのことであり、二回目以降はやはり注釈なり解説なりをしっかりと読ん文章を噛み締めながら勉強した方が良い。それを怠っていては頭が良くなりようがない。
読書は反復することで知性が磨かれる。
本は読んで自分の役に立つのに時間がかかるものなのだと最近まざまざと知った。
読者の本に対するマナー
著者の関連知識が不足しているか、誤っているか、論理性に欠けるか、のどれかが立証できない限り、読者には反論する資格はない。
「あなたの前提には何も誤りはない。推論にも誤りはない。だが、私としては結論に賛成できない」ということは許されない。
それは、結論が「気に入らない」と言っているだけで、反論とは言えない。
著者に説得されたのなら、そのことは素直に認めるべきである。
p169
本を読んでいる際に読者がわきまえておかなくてはならないマナーである。
それは大前提本文をちゃんと理解しろということに尽きる。要は国語力の問題だ。
ここで挙げた「著者の関連知識の不足」「情報が誤っている」「論理性に欠ける」のどれかでない限り、読者には著者を反論することは出来ない。まったく至極その通り、当たり前といえば当たり前の話であるw
なんでこんなことをわざわざ抜粋するかというと、世間には、いやネットには特に人の言葉尻を捕らえて、文脈を理解せずに勝手なことを言う輩が多すぎるからだ。
ではそんな人間に、例えばブログの書き手であるわしが出会ってしまったらどうするか?
本の概要や内容もつかんでいないような批評家に批評された苦い経験は、どの著者にもあるものだ。また、演説家なら誰でも、自分の話が全くわかっていないような質問を受けた覚えがあるはずだ。
実際、この手の批評家にまともに取り合うことは、無意味である。そういう批評家には、書き手や話し手の述べていることを、もう一度自分の言葉で、言わせてみるとよい。相手の主張も満足に自分の言葉で説明できないような批評家は、無視してかまわない。
p152
このようにまったく文章を理解していない輩は無視するに限る。
要するにスルースキルというやつだ。
ブログを長く運営していて、自分の好き勝手なことを書いているとたまに、「お前、文章読んでないだろwww」というような的外れで上から目線なコメントをはてなブックマークなどでつけていく輩がいるけど、本当に理解に苦しむ。
記事を読んでまったく賛同しなければ、はてブなんかつけなきゃいいのにわざわざ捨て台詞のようなコメントを残してはてブをつけていくんだから何を考えているのかわからない。
だからこういう意味不明な輩、罵詈雑言は無視する。
最初の頃はこのスルースキルができなかったけど、最近は少しずつだが耐性がついてきた。
的はずれな「批評」は、がっつり「無視」して構わないのだ。
一方、これはいわゆる「教養書」などに対する時の読者の心構えで、文学などの芸術性のある作品ではまた少し違うと本書は言う。
つまり、小説に対して、読者は反対したり賛成したりするのではなく、好きであるかきらいであるかのどちらかだということを、忘れてはならない。
「教養書」を批判する場合の基準は「真」だが、文学の場合は「美」であると考えてよいだろう。
p207
なるほど確かに小説を読んだときは「好きか・嫌いか」「おもしろいか・おもしろくないか」でストレートに読者は反応する。
つまりは文学というものに限って言えば、読者と著者の相性の問題も関わってくるので、読者は何よりも作品の「美」を基準に批評するしかないということである。
(前略)数学的真実、科学的真実、歴史的真実等々、どの本についても、その「真実」を問うことはできる。人間の精神が生み出したすべての書物にとって、この真実という基準に照らしてほめられることこそ、最高の名誉である。
ところが、最近、このすばらしい批評の基準が、かえりみられなくなっているのは、おかしなことである。真実を小馬鹿にした本ほど、批評家に賞賛され、一般読者に受ける。多くの読者や、とりわけ昨今の書評家はほめることにせよ、けなすにせよ、真実以外のものに基準を求める。
目新しさ、センセーショナリズム、暴力など、知性を鈍らせ惑わすものばかりがもてはやされて、真実や明晰さや啓蒙性はなおざりにされる。
こういう事態は、今日、真実をなおざりにした書物が氾濫していることに原因がある。
書物は真実を述べることが第一である。この鉄則がここでまた問い直されれば、書かれ、出版され、そして読まれる書物の数は、ずっと少なくなるといっても過言ではないだろう。
p175・174
世間では売れている本がまるで価値のある本のように喧伝されているが、これは必ずしもそうではないということだ。
確かに2、30万部ほどのベストセラーを読んでみると意外と「アレ?」と評判の割には面白く無いなんてことがザラにある。
それよりもまったく無名に近いけど、非常に感銘を受ける本というものも世の中に存在する。
読書とは売れている本ばかり読むのではなく、自分の感性を豊かにしてくれる本をたくさん読むことが大事なのだ。
目新しさやTVや雑誌などのセンセーショナリズムにあおられた本や、暴力性などで話題になった本ばかりを求めてはいけない。
確かに著者にはいささ問題があるが、素晴らしい知性の持ち主がわしら一般の読者が気づかないような問題点を記している立派な本は世の中にたくさんある。
そうした啓蒙性のある本をもう一度、自分の知性を信じて読みふけることが大事なのだとこの本を読んでいて気づいた。
そうした読者としての心構えを意識しつつ、これからはもう少し丁寧に本と向き合ってみようと思う。