ちわ、おいさんだよ。
キミは童話は好きかい?
どうわ?昔話的な?
というか今回紹介するのは児童文学かな?
児童文学ぅ?お前が?
わしだって児童文学くらい読むのじゃ。
そこで今回は「ハックルベリー・フィンの冒険(上) (光文社古典新訳文庫)」を紹介するのじゃ!
ああ、「トムソーヤ」の続編か。
それならお前にピッタリだなw
そりゃどういう意味だ?
わしも前作の「トムソーヤ」を読んでみたんだけど、このハックルベリー・フィンもそれに負けず劣らずヒデェんだ。面白いもんだから今回ここで紹介してみるよ。
前回まではこちら
アメリカには珍しい歴史修正主義小説。という話(*´ω`*)
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アメリカが絶対に見ようとしない歴史修正小説とは?
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ハックルベリー・フィンの冒険
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子供の頃、始めて家にビデオデッキが来た時、家で始めてみたビデオはオカンがどこからか買ってきた「トム・ソーヤーの冒険」だった。
何故か1巻だけあったそのビデオを、わしと兄は何遍も見た。
そんな思い出のあるビデオなだけに、
先日、久しぶりに図書館で見かけた「トム・ソーヤーの冒険」を見かけた時に始めて手にとって読んでみることにした。
感想は一言でいうと、なんという「クソガキ」かっ!ということ。
この言葉が世界で最も似合う男の子といえば「トム・ソーヤー」その子だけだろう。
始めてこの原点を読んだ時は子供の頃アニメで観たトムとは程遠い、悪童という名がふさわしい悪戯っ子トム・ソーヤーに度肝を抜かれた。
マーク・トウェインの原作のトムってこんなに悪ガキだったんだw
アニメでは多少可愛い男の子としてデフォルメされていたが、原文を新たに訳したこの光文社刊・トム・ソーヤーの性格はそんなアニメ版と打って違い生易しいものではなかった。
とにかくこの物語で描かれるトムは根っからの悪ガキで周囲の大人も手を焼くほどの才知とずる賢さを兼ね添えた文字通りの悪童である。
そしてそれに付き合う本書の主人公・ハックルベリー・フィンも、トムにいつも翻弄されてしまう気の毒なほどに滑稽な男の子だ。
だけどこの物語、なげぇよ!
どんだけこんなくだらないドタバタ騒ぎが続くんだよ!!
読んでていささかうんざりしちゃったよ(;´Д`)
というくらい、これでもかと悪童トムは暴れまわる。といってもそれは「トム・ソーヤーの冒険」の話。
最後まで道化役のトムに振り回され
本書はそんな「トム・ソーヤーの冒険」では脇役であったハックルベリー・フィンを主人公に、それまでのトム・ソーヤーの物語後半で富や名声を手に入れた生活にウンザリしたハック少年が、ひょんなことから黒人奴隷ジムと一緒に故郷を飛び出してミシシッピ川を下って冒険するといった物語である。
トム・ソーヤーを読んでいた時も思っていたのが、なんでこんなにトムというガキは読み手をイライラさせるのだろう。平気でウソをつくわ、ガキのクセに女をたぶらかすわ、大人の言いつけは守らないわwもう手の施しようのないどうしようもないガキである。
本書、ハックルベリー・フィンでも物語の冒頭と後半の最後の方で大活躍するのだが、大活躍と言っても正直巻き込まれるハックにしたらいい迷惑で、このクソガキは一体なにを考えているんだろう?と最後までイライラする。
とにかくトムという存在がここまで悪ガキなのが理解できない。
ここまでの悪童は日本にはさすがに存在しないだろう。
「トム・ソーヤー〜」も本書もギリギリのところではトムという男の子が小さな英雄として描かれているが、冷静に考えてみると、過剰なまでのトムの大人の世界への憧れや模倣(本で手に入れた海賊や冒険などの知識)は読んでいていささかうんざりする。
まずこの物語が展開される当時のアメリカの状況が、日本人には理解できない……というか受け入れられない。
日常の中で平気で人種差別できな物言いや、黒人奴隷を酷使し、私物化している白人社会に21世紀の読者はイライラしっぱなしである。
それに付き合わされる浮浪児ハックも気の毒になってしまうが、本作の主人公になったハックも読んでいるとイライラさせられることばかり。
それは当時の子供や黒人奴隷のジムでさえ、呪いや魔女といった非科学的なものを信じていて、そういった迷信に振り回されているあたりが、現代人には読んでいてツライ。
重要なのは上巻のジムのところまで
で、このハックルベリ・フィンの物語がおもしろいのは上巻のハックが逃亡奴隷ジムを売り渡すかどうか悩んだシーンまでだろう。あそこらへんまではハックの良心というべき善良な少年の葛藤が色濃く丁寧に描かれている。
「ようし、こうなったら、オレ地獄に行く!」
と長いこと川の上で一緒に過ごしたジムを白人たちに引き渡すことを拒否して、友だちとして最後まで一緒にいてやろうと決め込む当たりは読んでいてとても気持ちよかった。
しかし、その後に出てくる王様と公爵なんかはもう最悪なホラ話のオンパレードで読んでいるこっちが胸くそ悪くなるw
アホかこいつら、
なんでそんなもんを信じてそこまで必死なんだよ(;´Д`)
とまたまたウンザリしてしまうw
これは今回この二作を読んでいて非常にツライところだった。
そして最後に出てくるトムの無理矢理な一件落着の仕方。
これはかなりご都合主義。ちょっと出来過ぎでない?と現代の視点では首をかしげてしまう。それになによりマーク・トウェインの饒舌な筆致にも時々閉口ものだ。
だが、この物語には散々悪口を書いてしまったが、読者を読ませてしまう力のようなものがしっかりと備わっているのだ。
それは、ハックやトムや当時のアメリカ人たちを教養のない馬鹿だと片付けてしまうにはおしい何かがそこにはある。
わしは「トム・ソーヤー」を読んで感じたのは、「ああ、小さいころのわしもこんなトムみたいな『クソガキ』だったなぁwww(*´ω`*)」といった印象だった。
誰にでもこのような腕白坊主の時期はある(トムは腕白を通り越して悪ガキだがw)そんな小さなころの情景を、「トム・ソーヤー」や「ハックルベリー・フィン」といった物語を通して改めて自分が通ってきた道をふりかえってしまったのだ。そうした子供の頃の体験は、19世紀のアメリカと現代の日本とではそんなに変わらないらしいw
そして当時のアメリカの日常を目の当たりにしたとき、21世紀の我々が改めてアメリカを観る際には色んな意味で参考になるのではないかと思うのであった。
そんなハックやトムの冒険の物語を読んでいてわしは、子供の頃の自分を懐かしく思い出してしまったのはむべなるかなといった感じである。