こんちわ!おいさんだよ。
キミはブルックリンは好きかい?
ああ、あのニューヨークの一地区にあるアレだろ?
ぶるっくりんってどこ?
ポポポ!(地図を指差す)
たぬき、それは九州じゃ。
といってもわし、ブルックリン行ったことないんだけどね。
じゃあ、なんでいきなりブルックリンなんて地名が飛び出したんだよ。
それは今回紹介する本がブルックリンを中心にしているからなのじゃ。
そこで今回は、ポール・オースターの「ブルックリン・フォリーズ」をご紹介するよ!
ブルックリンってどこでしゅか?
前回まではこちら
アイデアを生み出すノート術。という話(*´ω`*)
ブルックリン・フォリーズ
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アメリカといえば、夢と希望に溢れた自由の国というイメージがあるが、実際には日本とそれほど変わらない、人生に敗れた者、絶望した者が多く集まる国に今ではなってしまったようだ。
ドナルド・トランプが「隠れトランプファン」なる者たちに支持されて当選したように、今では開きすぎた格差に絶望した白人たちが、各地で次々と怨嗟の声を上げてアメリカを覆い尽くさんとしている。
そんな絶望の現代よりもよりもだいぶ前、
9.11を迎える直前のアメリカ・ブルックリンが本書の舞台だ。
登場する主人公のネイサン・グラスは、今はもう現役を引退した元保険外交員。
悲惨な結婚生活の果てに娘には愛想を尽かされ、ガンの手術後、自分の死地を求めてブルックリンにやってきた哀れな男である。
なんとはなしにブルックリンにやってきた彼は、そこで思いがけずかつて自分がとても可愛がり、成功すること間違い無しと思っていた秀才(神童?)の甥っ子トムと出会う。
トムはブルックリンで一風変わった書店のオーナー・ハリーの元で働く本屋の店員として、かつての輝きはいまは見る影もなくネイサンが予想していた成功も失われた状態で再会を果たす。
ここに出てくる登場人物たちは、みなインテリジェンスで、温厚な性格の、いまだったらたぶん民主党の支持者であったろうリベラルな思想の持ち主ばかりだ(実際に本書に出てくる登場人物の何人かはブッシュ政権誕生を阻止するためにデモに参加している)
「フォリー」とは「愚かな」を表す単語だが、そんな温厚で知性豊かな彼らが、人生においてしでかした「しくじり」のおかげで自らの生きる道を見失い、ブルックリンで出会ったことで様々な事件が巻き起こる。
人生に絶望した者たちへのエール
本書はポール・オースターの作品の中でもかなりライトな、どちらかというとオースターの作品では「ティンブクトゥ」に近い軽妙な語り口で書かれている苦悩を抱えた大人たちの物語とである。
そんな主人公のネイサン・グラスは、半ば自嘲気味に彼の余生を自身「愚行の書」と呼ぶ、今まで見聞きしてきた男たちのありとあらゆる愚行を記録する本を書くことを趣味としている。
「文章を書くことの本意」に苦悩しつつ、そのような本を書きすすめる彼に向かって、哀れな雇われ書店員トムの放つ言葉がとても印象的だ。
詩人や小説家の生涯をよく見てご覧なさい。そこから得る総体は掛け値なしの混沌、例外ばかりの無限のごたまぜです。それは書くということが病だからです、とトムは続けた。
何なら心の感染症、魂のインフルエンザといってもいい。
誰がいつかかっても不思議ではないんです。
老いも若きも、強きも弱きも。酩酊せる人も素面の人も、正気の者も狂気の者も。文学の巨匠、準巨匠のラインナップを見てごらんなさい。
あらゆる性的気質、あらゆる政治的傾向、この上なく気高い理想主義から最高に陰険な堕落まで、人間としてありとあらゆる特性を抱え込んだ人たちです。
彼らは犯罪者であり弁護士であり、スパイであり医者であり、軍人であり独身女性であり、旅人であり隠者でした。誰も除外されないんだったら、六十歳にならんとする元保険外交員が仲間に入るのを何が妨げます?
いかなる法が、ネイサン・グラスがこの病に冒されていないと断定できます?
「ブルックリン・フォリーズ」p155
この「誰がいつかかっても不思議ではない」という部分に、わしは自分の心を見透かされたような気がしたw
わし自身、ブログなんて書く気はさらさらなかったが何故か突然自らの旅(これも一つの愚行の書)を書きたいと思いたち、このブログの初期の形「ドラねこ日記」を始めたのだ(多くの方は覚えてないだろう)
よくここまで続けて来れたもんだと自身の書き散らしてきた駄文の数々を振り返ってしまうが、病気だったんだからしょうがない。
人が何かを「書きたい!」と思うことは、魂のインフルエンザなのだ。
老いも若きも、バカもかしこも、男も女も誰だって常に自分の人生にぶち当たる不条理に翻弄されて疲れた時、どうやらこの魂のインフルエンザなるものにかかってしまうらしい。
それが端的に発散される場所が、わしにとってブログだった。
そう、「書くこと」は心の感染症なのだ!
魂のインフルエンザに促されて
そんな魂のインフルエンザに絶賛かかり中のわしも、やはりネイサンではないが弱小ブログを更新していると常に書くことの意味を考えさせられる立場にいる。
わしはなぜそんなに読者数もいない、うだつの上がらない弱小ブログをもう三年続けているのだろう?一向に報われないブログを意地になってこうも駄文を書き散らしながら更新しているのか?
まるで青臭い苦悩を抱えながら、常に無い才能と知恵を絞りながら更新に更新を重ねる日々。
そんなわしが綴る文章なんか、いずれは読者に見放されてしまうんじゃないだろうか?
そう思っていたわしに、この本から一つの光明を見いだした。それがこの一節、
社会が押し付けてくる命令を拒む勇気があるかぎり、人は自分の定めたやり方で生きることができる。
何のために?自由であるために。
でも何のための自由?
本を読み、本を書き、考えるために。
p18
そうだ、「自由」だ。
わしは「自由」がほしかった。
わしは自由を手に入れるために、このブログを始めたのだ。
最初は、旅の記録や本の備忘録のために更新していたこのブログも、突き詰めればこの「自由」を手に入れるために始めたようなものだった。
本を読み、自らの頭で考え、そして自らの力でお金を得て「自由」に生きるために……
このブログを始めた「核心」は多分ここにあったのだ。
もちろん、未だにその「自由」とやらは手にいれてはいないし、情けない日常は今も続いている。
それでも自分がしたいことをして明日を生きるために、わしは「社会が押し付けてくる命令を拒む勇気」を持ちながら、書くことを続けなければならない。
それが、わしがブログを書く「意味」なのだろうか。
そんな魂のインフルエンザに、あなたもいつかかかるかもしれない。