こんちわ!おいさんだよ。
キミはポケモンは好きかい?
いま流行ってるよな「ポケモンGO」
ボクもやってるよ!
ポポポ!
お前たち…自分がポケモンみたいな見た目しているのに流行には敏感じゃな。
しかし、そんなポケモンもポケモン自体の歴史を知っているか?
いや、あんまり興味もったことねーな。
そうじゃろう!
そこで今回は最近何かと話題のポケモンについての歴史を綴った「ポケモン・ストーリー〈上〉 (角川文庫)」を紹介するよ。
ポケモンはあちしも大しゅきでしゅ!
前回まではこちら
暇と退屈について考察してみよう。という話(*´ω`*)
ポケモン・ストーリー
- 作者: 畠山けんじ,久保雅一
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2000/12/08
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 12回
- この商品を含むブログ (16件) を見る
わしは年齢的にはポケモン第一世代といっていいだろう。
そんなわしとポケモンとの出会いは小学3年生の時だった。
何気なく友達に借りたこのゲームボーイソフトを、ファーストプレイは文字通りのめり込むほどやりこんで、全クリした時わしは感じた。
このゲームはおもしろい!(*゚∀゚)
今までやって来たゲームボーイソフトで、
ここまで密度が濃くってやりこみ要素のあるゲームはそれまでなかった。
その後結局どうしても自分のポケモンが欲しくなり、慌てて誕生日のプレゼントに親に買ってもらってしまった。しかも2つもw
ええ……買いましたよ。「赤」と「青」をw(;´∀`)
それからというもの毎日それこそ寝食を忘れてポケモンを取りまくった。
147匹を取ったところでデータが消えた時は、思わず目から血が吹き出しそうなほど哀しんで、文字通り「悶絶死」しそうになったけど、そんな涙の経験を乗り越えて、それからはいかに最強のポケモンを作るかで血道を上げる仁義なきポケモントレーナーとして血で血を洗うような世界でいつもシノギを削っていた(近所の友だち連中とw)
そんなわしがのめり込んだポケモンが、最近はポケモンGOのおかげで再ブレイクを果たし、世間をびっくりするほど賑わせている。
一体コレはどうしたことだろう?
なぜ今頃になって世間では頃ほどまでにポケモン、ポケモンと騒いでいるんだ?……去年までは妖怪ウォッチに押されていたのに(;´∀`)
そんな世界中で愛されるポケモンが、なぜにコレほどまで世界中の人間に愛されるまでのコンテンツになったのだろうか?
本書を読むまでどのような経緯を経て、ポケモンがここまでビッグビジネスになったのかその全貌を全く知らなかった。
「ポケモン・ストーリー」はそんなわしらが子どものころから慣れ親しんできたポケモンの制作秘話を、制作会社のゲームフリーク、任天堂、そして小学館とそれぞれの視点から語る、目からウロコのビジネス書である。
町田の昆虫少年の「夢」から始まった
ポケモンの関係者でまず真っ先に上がる人といえば、大元であるゲームを作成した田尻智(たじりさとし)氏だ。
町田の昆虫少年として育った田尻智氏は「ゲームセンターあらし」に出て来そうな生粋の天才ゲーマー。
インベーダーゲームやゼビウスなんかに夢中だった彼が、ゲームをやるに飽き足らず実際にゲームを作ってしまおうとしたところからゲームフリークという会社は誕生した。
この会社がポケモンを開発したことによって、後に任天堂、小学館とタッグを組んで巧みな販売戦略を駆使してポケモンを世界的なコンテンツへと押し上げることになる。
ではなぜそんな昆虫採集に夢中だった少年が、ポケモンという偉大なゲームを作ろうと思ったのだろうか?
巻末にある田尻氏のロングインタビューから抜粋してみよう。
ぼくは、13歳でインベーダーゲームに初めて向き合って以来、ゲームをやりながら育ってきた人間なんです。
なぜそういうことになったかと言うと、ゲームはどうしておもしろいんだろう?どうしてオレはゲームを面白いと思うんだろう?どうしてオレはゲームをこんなに、大晦日も正月もね、やってしまうんだろう?というようなことを考えてきて、そのうち面白いゲームってどういうものかと分析するようになったわけですね。
その発見をみんなに知ってもらおうとゲームフリークを始めたわけですが、それでも言葉で伝えられないものはいっぱいあったわけです。
そのもどかしさとか、怒りとかね、そういうものを糧にして、オレにとってのゲームというのはこういうものなんだということを示そうと作ったのが『クインティ』でね。
ポケモンはそこにさらに、ぼくの知識とかゲームというものの歴史とか、ぼくの人生のすべてを駆使して作っていったわけです。ゲーム文化の凝縮というかね。具体的には、ぼくの少年時代を全部、ゲームの中に表現したいと思ったわけです。ぼくがあの頃に受けた知的刺激ですね。それを全部、ゲームに封じ込めたかったわけですよ。
だからあれは、子どもたちにっていうよりも、実はぼくと同じ世代の人たちに、こんなことがあったでしょって、伝えたいっていう気持ちですね。でもそれが子どもたちにも伝わったわけですよ。この物世界は変わらないっていうかね、時代が変わっても、子どもが面白いと思うことは同じなんですね。
「ポケモン・ストーリー」p134
「ゲームはどうしておもしろいんだろう?」
という発想からそれこそのめり込むほどゲームをやりまくったというところが田尻智氏のすごいところだ。
こんな風に自分が好きなものに対してすべてを投げ打って身を投じてしまうような人が世間をびっくりさせるほどのビッグコンテンツを生み出すのだろう。
80年代当時、ゲーム界は大きな転換期にさしかかっていました。急速に進化し始めたコンピュータ・テクノロジーがゲーム機に続々と取り入れられていったのです。それまで平面の線画でしかなかったパックマンが丸みを帯びた立体として描かれたり、より複雑な動きをするインベーダーゲームが登場したりしました。
しかし、田尻はそんなゲームを見るたびに、がっかりしてしまいました。ビジュアルがいくらリアルで複雑なものになろうと、ゲームそのものは「パックマン」であり「インベーダーゲーム」であることに変わりはなかったからです。
そうじゃない、そうじゃないんだ!田尻は思いました。
それじゃあ、コンピュータというハードのテクノロジーに頼っているだけじゃないか!ゲームのおもしろさは、ビジュアルの立体化や複雑さにあるんじゃない。アイデアそのものにあるんだ、ゲームの仕組みにあるんだ。そのことにどうしてみんな気づかないんだろうー。
p33・34
この話を、最近では映像美にばかり気を取られて、ゲームの面白さを置き去りにしてしまった、どっかの大作RPGを作っているゲーム会社に聞かせたいw
ちなみに、TVアニメの「サトシ」はこの田尻「智」氏から取られているのだという。
そして主人公のライバル「シゲル」は、田尻氏が尊敬する「スーパーマリオ」の生みの親・宮本茂からとったのだそうな。
「カプセル」モンスターが「ポケット」モンスターに
そんなポケモンが、最初はポケットモンスターではなくカプセルモンスターと呼ばれていた、というの知る人ぞ知る事実だ。
タイトルとしてカプセルモンスターという言葉を使わなかったのは、商標権の問題が
あって「カプセルー」という言葉が商品名に使えなかったからでした。ですから致し方のないことだったのですが、田尻にはほろ苦い選択でした。「カプセル」という言葉には、少年時代へのノスタルジーが込められていたからです。タイムカプセル、カプセル宇宙船、冬眠カプセル、カプセル怪獣……。小学校時代に、文集や絵を詰めたタイムカプセルを校庭の片隅に埋めたことのある人もいるでしょう。あるいは、駄菓子屋の隅っこに置かれた不思議な機械、ガシャガシャとかガシャポンとかガチャガチャなどと呼ばれていたあの機械に、100円玉を入れてレバーをガシャガシャ、ガチャガチャ動かし、球体のカプセルが出てくるのを固唾を飲んで見守った経験は誰にでもあります。
カプセルという言葉は、少なくとも田尻たちの世代までは、少年時代のSF的世界への入り口でした。いわば万能の容器です。カプセルという言葉には、そうした少年時代の記憶がいっぱい詰まっていたのです。
カプセルでなければ、ではどんな容器がふさわしいだろうか?田尻は、モンスターたちをしまっておくにふさわしい、カプセルに代わる容器を新たに考えなければなりませんでした。
「それならボールはどうだろう」と、誰かが言い出しました。「モンスターボール」です。なるほど。田尻のイメージでは、格納するときはモンスターたちはデジタルデータ化されます。映画「トロン」でコンピュータの中に人間が入っていくのと同じような仕組みです。ですから、モンスターの格納器は小さなハイテク装置になるのですが、そのいめーじが損なわれていないのであれば、ボールであっても問題はありません。
p99・100
「モンスターボールは子どもが片手で握れるくらいの大きさで、いつもポケットやカバンに入れて持ち歩けるんだよ。だから『ポケットモンスター』はどうかな」という発案で「カプセル」モンスターは「ポケット」モンスターに変更になったという話に、わしは関心するものがあった。
なぜならわしが初めてポケモンのモンスターボールなるものを見た時感じた「ガシャポンみたいだな」というわしの第一印象と同じだったからだ。
田尻氏は「カプセル」という言葉を使えなかったことに忸怩たる思いがあったようだが、だけどやはり結果を見ると、ゲームのタイトルを「カプセル」ではなく「ポケット」にしたというのは英断だったのではないだろうか?
「カプモン」よりも「ポケモン」の方が響きが可愛いもんねw
ポケモンの本質は「交換」という動詞にある
ポケモンが他のゲームよりも何よりも画期的だったのは、ゲームボーイの通信ケーブルを使って、これまでにないデータを「交換する」ということをメインに置いたことだ。
企画書のポイントは、ひとが欲しくなるような怪獣をお互いが持っている、そしてお互いに持っていない怪獣を交換して両方共特をしたら、それで仲良くもなれるということでした。その土台にゲームボーイがぴったりだ、というわけです。
ではゲームにするときに、大切なものは何か。
A君とB君がモンスターを交換してA君のものだったモンスターがAくんの知らないC君のところまで行くっていうことなんですね。するとB君というのを媒介にして、本来はコミュニケーションのなかったA君とC君の間の関係性が成り立つんですね。そういう遊びが具体的に作られれば成功だと思ったわけです。
p487
確かにあの頃のわしの実感としては、ゲームボーイに通信ケーブルというものがあるのは知っていたが、それはもっぱらテトリスなどのパズルゲームにおいて「対戦」という意味合いで使われるものであった。
そこにデータを「交換する」という発想はそれまでのゲームにはなかった。
それこそがポケモンの「新しさ」だったのだ!
……最近のポケモンGOではまだこの「交換」は実装されていないが。
それでも子供同士、近所の子供達みんなで集まって、このポケモンのデータを「交換する」ことによって、学年の壁を超えて今まで話したこともなかった年上や年下の子どもと仲良くなり、最終的にはより多くの友達の輪が増えていったことは、実感としてわしもよく覚えている。
それで交換する時に、そもそもなんで交換するのかっていったときに、最初に欲しくなるものをあげるっていう動機のほかにも、強力な動機付けが必要だと思ったんで、たとえば里親のように自分のものを相手に預けることで、お互いが得をするという仕組みを打ち出せないかと思ったわけです。そうすると、人の場所にポケモンが移動したときに、ちょっと早く育つとかちょっと強力になるという風になれば、それがわかれば交換する動機になるなあと思ったわけです。
ところが、自分のゲームボーイがどうかということをどうやって知るのか、ということが問題になるわけですよ。
で、そのためには、乱数で自分のカセットのIDナンバーっていうのを、6万5000くらいの数字の中から選び出して、それぞれ勝手に付ける。カセットのIDが乱数で決まったら、そこから生まれでてくるポケモンのIDナンバーはみんなその番号なわけですよ。そうすると、乱数でIDナンバーがついてるわけですから、確率としては6万5000人と交換しつづけない限りは、同じ番号の人と交換することはないですから、ぼくとキミのIDナンバーは違うよねっていうことで、それぞれ別の世界が持てるっていうことになっているわけです。
それで、IDナンバーをつけてゲームを続けていくと、カセットを買ったときにすでに全員がそれぞれカセットが違うんですっていう理解でカセットを買ってもらうという風に、宮本さんに話をしたんです。そうしたら、仕組みとしては面白いけど、ちょっと分かりにくいなといわれたんです。やっぱり、見て分からないといかんのやないかって宮本さんが言って、色が違って見た目が違えばよう分かるって言ったんで、へえ、そんなことしてもいいんですかって言ったんです。そうしてもらえれば、ぼくは助かるけどって。
だからIDナンバーが違うっていうことを言いたいがために、象徴的に色を変えるというアイデアが出てきたわけです。だけど現実としては、色も変えましょうと。色も変えるんだったら、もうちょっとがんばって、色がちがうんだからもう少し、色によっていろいろ違うっていうふうにしなければならないということになったんです。
だから、五色とか七色作りたいなあって思うんだけど、現実問題としてそういうことはできないわけだから、とりあえず、最低の二色だということになって赤と緑になったけですよ。
p501
なるほど、だから初代ポケモンはあんなにたくさんの色があったんだね^^;
その戦略にまんまと乗せられてわしは青を買ってしまったよw
ちなみにその時採用された「赤」と「緑」という色は、任天堂の「マリオシリーズ」のマリオとルイージの帽子とシャツの色から決まったんだそうなw
この二色に加えて、ツナギの「青」を加えた三色が、任天堂の暗黙のシンボルカラーになっているだそうだ。
「丸々6年とはいいませんが、少なくともたっぷり2年間、田尻君や田尻君のチームの思いやアイデアを結集してまとまったものですから、それは中身が濃かったですね。遊んでも遊んでも新しいゲームの窓がたくさんあるという感じでした。遊びの位置づけが非常に直感的だったことも大きんですけれども、バランスがとてもいいんですね。
ぼくたちはこれまで、主人公のA君は剣と盾を持って冒険の旅に出て、それで経験値とお金を得て、新しい剣と盾を買いましたっていうのをずっとやってきたわけです。主人公が成長してゆくんですね。けれどもポケモンでは、主人公自身は何の成長もなくて、もちろんバッジを得ることによってトレーナーとしての能力は高まるんですけれども、一番の成長の対象になるのは、ポケモンと呼ばれる生きものたちなんです。
彼らをどんな手段で捕まえ、どんな編成で連れて旅をするのかが本編なわけです。それを実現するために、野生のモンスターを弱らせて、ヒットポイント(HP=体力)を減らしていって、減ったところでモンスターボールを投げると、モンスターはあきらめて捕獲されてしまう。十分弱らせていないと、捕獲できないことも多いんです。
この野生のポケモンは、いったん捕獲したら自分のモンスターとして名前をつけて成長させることができる。でもそれをすぐに戦いに出そうとすると、捕まえるためにかなり弱らせているので、回復させなくちゃならない。捕まえるためには弱らせておかないといけないんだけど、つかまえたあとですぐ戦いに出そうと思うと、弱っているのですぐやられてしまう。
一方で、モンスターはやっつけないと経験値がもらえないので、捕まえるために戦ったモンスターは経験値が得られなくて成長の足しにはならないとかですね、そういう細かなやりとりがたくさんあるんです。あちらを立てればこちらが立たない、でもこちらが立たなければこういう利得があるといったところが、まさしくゲームバランスというものだと思うんですけれども、その遊びの仕組みのバランスが絶妙だなって思ったんです。
この遊びの仕組みのバランスが絶妙だなっていう感じははじめからあって、それをどこまで深められるかっていうのが、ポケモンの難しさだったと思うんです。それを、スタッフみんなの力だと思うんですけど、田尻君たちは実現してしまったわけです。」
p137・138
このように、幾度もの危機と進まない開発を乗り越え、どこまでもゲームを愛する男たちによってポケモンは誕生した。
しかし意外なことにポケモンはゲームボーイという市場的にも終わりかけていたゲーム機で発売されたために、発売当時セールス的に全く期待されてなかったという。その成功はまさに奇跡といっていいようなものだった。
コロコロコミックとのメディアミックス
そしてここから話は小学館サイドへと移る。
当時、小学生のお小遣いの使いみちを正確に把握していたコロコロコミック編集部は、このゲームボーイソフトとして発売されるポケモンのヒットを確信していたという。
しかし自分たちの予想とは別に、他のメディアではそれほどまでにポケモンというものに注目はしていなかった。
そこで、コロコロコミックは当時副編集長でミニ四駆ブームの仕掛け人・久保雅一氏によって、他誌が興味を持っていないことで独占的に情報を扱うことができたために、コロコロ誌上で強烈にポケモンというゲームをプッシュしていくことになる。
ここらへんの経緯はわしもよく知っている。
当時、コロコロ・ボンボンは男の子がいる家庭ならどこの家庭でも読まれている漫画雑誌だった。
わしも先の「ポケモン・青」を手に入れることができたのも、このコロコロの強烈なプロモーションに後押しされてによるものだ。
その時の熱狂と言うか、自分がブームの真ん中にいたというリアルな感覚は、今でも鮮明に覚えている。
その後、わしがポケモンを卒業をするのと軌を一にして、ポケモンのアニメが始まり、第二次ポケモンブームが始まる。
そして、あのポケモンアニメを見た子どもたちが倒れるという「失神事件」を乗り越えて、ポケモンはアメリカへ、そして世界へと飛躍していった。
そこらへんの詳しい様子は本書に譲るとしても、わしが子どものころ夢中になったポケモンにここまで熱い製作者側の苦労があったのかと、その情熱を本書を読み進めていく上で感じずにはいられなかった。
改めて、当時夢中になってポケモンをプレイできたわしは幸せだったんだなと、当時の子どもの頃の自分を振り返ってしまった。
ポケモン好きなら、是非読んでおきたい一冊だ。