ちわ、乱視の猛虎ことおいさんだよ。
キミは「弱いつながり」を求めたことはあるかい?
「弱いつながり」?
なんだそれ?
?
ポ?
先週色々読んでいた本で、東浩紀の「弱いつながり 検索ワードを探す旅」がおもしろかったんだよ。
それがなんなんだ?
それで今回は「弱いつながり」を紹介するのじゃ!
前回まではこちら
牛のように黙ってすすめ!過酷な道の歩き方。という話(*´ω`*)
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討ち死に覚悟でずんずん進め 漱石秘伝の個人主義のすすめ
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弱いつながり 検索ワードを探す旅
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自分自身よくネットを利用している。
昔はそうではなかったのに、今やTVを見る時間は減り、1日の大半を読書とネットに時間を割いている。
仕事をネット経由で受けているといいこともあって、今やネットはわしらには欠かせないライフラインだ。
もはや気づいたらネット依存症。それほどまでにわしらはGoogleに依存している。
そう、お手軽で安価で自分の好きなように使えるネットだからこそ、そこには意外な弱点がある。
本書はそんなネットの弱点に焦点を当てながら、ネットに囚われずに弱い現実をより良く生きていくためのアイデアが詰め込まれた本である。と言えばよいだろうか?
ではどのようなことが書かれているか、本書の中を見ていこう。
見たいものしか見ることのできないネット
ネットにはノイズがない。
だからリアルでノイズをいれる。
弱いリアルがあって、はじめてネットの強さを活かせるのです
「弱いつながり」p15
この文章は外の世界を見ずにネットばかり接していると視野が狭くなるということを表しているのだろう。当たり前のことに聞こえるかもしれないが、これは意外と含蓄のある言葉である。
ワシ自身、普段の生活ではTVなど見ずに世の中の情報はほとんどネットでまかなっていた時期が一時期あった。
しかしそんな自分も5年前何気なく一人旅をしたことで自分の狭い世界を知り、視野が開けたことを覚えている。
旅をすることで、いま現在の自分の悩みを日常から離れてみることができるし、(震災後の)日本の未来の事を思ったり、自分がいま置かれている現実を俯瞰的に眺めてみたり。
その時は何気なく神社仏閣やパワースポット巡りのために行き当たりばったりでバックパックを担いで各地をまわっていたつもりであったけど、この無計画な旅がわしを予想外のおもしろい旅へと変えてくれたような気がする。
この無計画さというのが旅には大事なのだということを、実際に旅してみて痛感した。
それは人生においても同じだろう。
旅をしていて困るのは当初予定した計画が早くも達成されてしまった時である。
次の日の目的地にはまだ遠く、今日の行程は予想外に早く消化されてしまった時、その場でガイドブックを使って興味はないけど面白そうな場所を選んでその目的地に行ってみる。
そのアドリブさというか、融通無碍、行雲流水の生き方は時に人生に必要なのだ。
「どうせヒマだし。」
この合言葉を胸にぽてぽてと予定を変更して行きあたりばったりで行動してみる。
そんなことをしていると、不思議にも面白い目にあったりもするのだ。
そんな思いがけないサプライズが自分を思いもよらない方向へと進めていく。
セレンディピティなんて高尚な言葉があるが、思い返せばわしはそんなものに自然と導かれていたような気がするのだ。
もう一度言いますが、環境を意図的に変えることです。
環境を変え、考える事、思いつくこと、欲望することそのものが変わる可能性に賭けること。
自分が置かれた環境を、自分の意志で壊し、変えていくこと。
自分と環境の一致を自ら壊していくこと。グーグルが与えた検索ワードを意図的に裏切ること。
環境が求める自分のすがたに、定期的にノイズを忍びこませること。
p11
そういった行き当たりばったりの面白さ。自分をあえて裏切る行動をとる。
計画にはない予想を超えたものに出会うということが時に人生という長い旅には必要なのだ。
自分の見たいものしか見ない旅。
これはいわゆる自分が見たいものしか見ないネットと同じである。
これは意外と面白く無い。
それよりも自分が興味のない、もしくは知らない場所に足を向けてみること。
そうすると思いの外、おもしろい出会いにつながったりするのだw
そうした予測の付かない力を使い、自分の普段置かれた環境ではやりそうもないことをするのが、
グーグルの検索の力を意図的に裏切る「ノイズ」なのだろう。
もう少し偶然の力を信じてみよう
世の中の人生論は、たいてい二つに分けられます。ひとつの場所にとどまって、いまある人間関係を大切にして、コミュニティを深めて成功しろというタイプのものと、ひとつの場所にとどまらず、どんどん環境を切り替えて、広い世界を見て成功しろというタイプのもの。
村人タイプと旅人タイプです。でも本当は二つとも同じように狭い生き方なのです。
だから勧めたいのは、第三の観光客タイプの生き方です。
村人であることを忘れずに、自分の世界を拡げるノイズとして旅を利用すること。
旅に過剰な期待をせずに(自分探しをしない!)、自分の検索ワードを拡げる経験として、クールに付き合うこと。25年後の観光客が、福島に来て、それまではいちども経験しなかった「原子力」や「放射能」を検索してくれれば、それで福島第一原発観光地化計画は成功です。
検索とは一種の旅です。検索結果一覧を見るぼくたちの視線は、観光客の視線に似てないでしょうか。
P55
自分が一人旅で見つけたもの。それは偶然の力の大切さなのかもしれない。
ふとすると自分の人生はもう型にハメられた可能性がなくなったもののように錯覚してしまいがちである。
自分の意志で自由になる旅をすると、それがいかに根拠の無いものかということが身にしみて分かる。
テロリストにもビジネスマンにもならず、別の生き方を求めるにはどうすればよいか。
ぼくは、「弱いつながり」という著書で、村人(コミュニタリアン)にも旅人(リバタリアン)にもならない、「観光客」という第三の道を提案したことがあります。
(中略)
それは一言でいえば、歴史や伝統に敬意を払い、政治にコミットするコミュニタリアンでありながらも、グローバルなモノに惹かれる下半身の軽薄な欲望をうまく使うことで、潔癖主義のヘイトやテロに陥る危険を回避する生き方です。
東浩紀「開かれる国家 境界なき時代の法と政治」p29
世界は広い。それゆえに色んな可能性に満ちている。
それが全て良いものであるとは限らないが、ふとした衝動に駆られて普段の環境を離れ、自分の好きに行動できる時間が持てた時、ノイズに任せて道を歩んでいくと予想もしなかった世界が開け、思いもしない新たな選択肢が見えるようになる。
ネットは著者が言うとおりPCの前の利用者を固定化するツールである。
全てに繋がっているようで、実は今いる場所に「囚われている」
そんな危険なメディアに常時接続していると、いつの間にか自分の頭が麻痺してしまう。
自ら考え、自らで生きる道。
これを模索する力を徐々にではあるが割いていってしまうことにはならないだろうか?
そんな便利で全てが手元に届く情報を意図的に裏切り、どこか遠くへ歩き出せば今の自分をもっと高みへと推し進めてくれるかもしれない。
ネットが普及した今だからこそ、その「限界」を知るべきである。